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>>กลุ่มเกษตรกรทำสวนทุ่งคาวัดจังหวัดชุมพร

  ラメーってどこにあるの?

  タイの首都バンコクから南へ約570キロ、チュムポン県ラメー郡に「トゥンカーワット農園経営農民会」の活動現場があります。「トゥンカーワット」とはラメー郡にある地区の名称で、この農民会に所属する会員の多くがこの地区に居住していることからこの名称がつけられました。

  ラメー郡はゴム、パーム椰子、コーヒーなどの栽培が盛んな農業地帯。郡としての歴史はまだ浅く、現在ここに生活している人々のほとんども他の地域から入植してきた人々で、まだ入植第一世代の世帯がかなりの数に達します。いわば「開拓農村」なわけです。わずか30~40年前までこの地域には住む人もなく、鬱蒼とした熱帯林が生い茂っていた といいます。行政の働きかけで入植が奨励されたのを皮切りに南部タイのあちこちから次々と入植者がこの地に駆けつけ、この森を切り拓いて生活の糧となる農作物を植えていったのです。当時は野生の虎などもいたということです。ラメーの皆さんと話をすると、ワクワクするような開拓農民の生の経験を聞くこともで きます。

  農民会の発足は1993年7月、大阪にある大阪よどがわ市民生協の呼びかけに応じて農民会の組織化に加わった発足当初の 会員数は46名。彼らは無農薬バナナを同生協に供給するために、団結して農民会を組織したのでした。同生協は「安全、安心」をテーマに環境にやさしく、人間にとって安全な商品の開発と消費者への供給を設立以来ずっと追及してきた生協ですが、この間組合員の要望に答えられない商品がありました。それがバナナだったのです。生産者がはっきりとわかり、生産過程で農薬が使用されず、しかも生協がその生産物を利用することで、生産者とその地域社会が良くなっていくようなバナナを、よどがわは十数年間、捜し歩いてきたのです。

それまでラメーの人たちはバナナを本格的に栽培したことなどなかったのですが、8月にはバナナの作付けが開始され、バナナ園があちこちに誕生しました。年が明けた94年1月、よどがわ生協の友好訪問団がラメーを訪れ、相互の交流と協力を約束し会う「共同宣言」への調印が行なわれました。そして3月に記念すべき第一回出荷が行われたのです。

  それ以来ラメーの生産者は2年目には100名を越え、地域に根付いた組織へと徐々に成長してきています。日本の消費者との間の交流活動は継続的に展開され、毎年相互に代表団を相手国に派遣しながら相互理解を深める中で、組織の運営能力やバナナの生産技術を向上させてきています。94年10月にはとくしま生協がこれに加わり、その後同生協も会員となっているコープしこく事業連合全体がラメーのバナナを扱うに至っています。95年3月に任意団体だったグループは正式に法人登録され、名称をこれまでの「ラメーホムトンバナナグループ」から「トゥンカーワット農園経営農民会」へと改称、またこの年鳥取県生協も供給先の仲間に加わりました。

旱魃で壊滅したバナナ園(1998年5月)

  98年、タイは未曾有の金融危機に遭遇しましたが同時にエルニーニョ現象によって大旱魃が襲った年でもありました。この年ラメーのバナナは壊滅的な打撃を受けます。しかしよどがわ生協からの義援カンパが寄せられ、会ではこれを「よどがわ基金」として旱魃被害後のバナナ生産復興基金として運用しました。この頃年週当たり出荷量わずか 700kgという水準にまで落ち込んだこともありましたが、生産者は粘り強く栽培を続け、徐々に生産量が回復、翌年には週6~7トンというところまで回復しました。

  99年以降は順調な天候にも 助けられバナナ生産は着実に回復し続けました。この頃を境に会はバナナ生産に関する生産指導力を徐々に身につけて行きます。それまではどちらかというとた だ出来上がったものを買っていたに等しかったのですが、大旱魃によって生産基盤が崩壊したことで執行部自らが生産現場に行って生産者の話を聞くことの重要性を再認識したのでした。折りしも経済危機の嵐が吹き荒れる中、農家の購買力は低下し、エルニーニョ旱魃の影響はバナナだけでなく、ゴムや他の果樹などにも壊滅的な打撃を与えたため、農家は栽培期間が短くて現金を取得できる作物に傾斜しようとしていました。そこでバナナが農家の暮らしと農業経営の中で重要な位置を占めるようになっていったのです。

 

  会員の中から専従者としてスカパット専務理事が就任、会員をこまめに訪問して栽培指導を地道に始めました。将来の旱魃被害に備えて、栽培対象地域をラメー郡外にも拡大、近隣のターチャナ郡の生産者などが仲間入りしました。さらにパト郡、ランスワン郡などからも若手の熱心な生産者が駆けつけ入会、会員数は280名を超える大所帯になりました。生産の裾野と多様性が広がったことに加え、99~2000年の乾季は雨が比較的頻繁に降ったためにバナナの生産全体も急激に伸びました。農民会の2000年のバナナ出荷量は前年からほぼ倍増、3月には創設以来初めて注文を上回る余剰が出るに至りましたが、99年後半から首都圏コープ事業連合(現パルシステム生活協同組合連合会)が供給先に加わったことがこの生産増をうまく吸収しました。この時期の農民会のバナナ生産は2002年と05年に旱魃被害を経験する(この時の被害も前二回に引けをとらない深刻なものでした)ものの、基本的には右肩上がりで推移しました。

  2007年には首都圏コープ事業連合とペッブリ県バンラート農協が提携して結成された産直協議会に農民会も正式に参加、同年10月には同連合会が日本国内を含む産直産地で頻繁に実施している公開確認会が農民会で開催されました。これは2004年にバンラート農協で開かれたものに続く、タイのバナナ産地としては二回目の公開確認会で、日本から20名以上の生協関係者、学識経験者が参加して農民会のバナナ生産管理の仕組みなどについて確認しました。

  2008年、農民会はパルシステム連合会(首都圏コープ事業連合から改称)の助成を受けて本部敷地内にBM生物活性水プラントを造成、環境にやさしい農業生産体系の構築に向けてさらなる一歩を踏み出しました。

  2009年9月現在、農民会の会員数は680名を超え、生産圃場数は400箇所近くになっていますが、ここ数年農民会のバナナ生産は度重なる突風被害や洪水、旱魃などの自然環境の変化によって安定せず、収量も伸び悩んでいます。農民会執行部は新規作付圃場の拡大と既存圃場における古株の撤去・新苗の作付を奨励するなどの措置を取ることで生産の回復と安定化を図ろうとしています。もはやラメーのみならずチュムポン県全域そしてお隣のスラタニ県にも生産地域が広がり、農民会の役割は発足当初に比べて遥かに大きく、会員農家が寄せる期待も重くそして大きくなってきています。

 

>>สหกรณ์กล้วยหอมทองปลอดสารเคมีจังหวัดชุมพรจำกัด

  サウィっていいところ?

  チュムポン県サウィ郡はタイの首都バンコクから南へ約500キロの位置にあります。タイの国はちょうど象の頭のような形をしていますが、象のお鼻のちょうど真ん中辺りになります。南北に長いチュムポン県ですが、サウィはちょうどその真ん中に位置しています。 私たちのバナナ産地の一つであるチュムポン県無農薬ホムトンバナナ生産組合の活動拠点がこのサウィ郡です。

  組織の沿革

 組合が正式に法人認可されたのは2004年5月のことです。ただしそれ以前から任意団体としてバナナの生産・出荷活動を展開していました。サウィ郡から南西に約50キロほどいったところにパトという郡がありますが、任意団体ははじめはここを拠点とし団体名も「パト・ホムトンバナナグループ」と称していました。発足したのは2002年4月、発起人となったのはそれまで隣のラメー郡で日本向けに無農薬栽培バナナの栽培・出荷事業を展開しているトゥンカーワット農園経営農民会にバナナを出荷していた生産者たちで、地理的に同郡と離れていて毎回の出荷に支障が生じていたことや、周辺住民のバナナ栽培に対する関心の高まりなどを受けて、独立して自分たちで組織を作る方針を決定しました。

 発足当初は約40名のメンバーで構成されていました。グループとして初めてバナナを出荷したのは同年9月、当初はトゥンカーワット農民会から移籍した生産者たちのバナナがメインでした。翌03年2月には会員たちが文字通り手弁当で造ったパッキングハウスがめでたく完成、日本からも生協関係者などが駆けつけて盛大な開所式が行なわれました。

  ただバナナの生産量はその後伸び悩み続けました。新しい会員が新規に作付けしたバナナの多くが生育不良で収穫不能になってしまったからです。バナナの本格的な栽培が初めてだった生産者が多く経験不足だったこと、その年の雨季が例年にも増して多雨で苗が根腐れを起こしてしまったことなどが原因でした。2003年を通じ、お隣のトゥンカーワット農民会では週15~20トンを出荷していたのに対し、グループの出荷量はわずか1~2トンに留まっていました。

  2004年3月には日本側から農業の専門家を派遣して全圃場調査を行ない、消費者サイドも加わっての栽培改善に向けての努力を開始しました。栽培技術研究会が組織内部に設立され、圃場見学や栽培技術情報の交換会などを行なってお互いの栽培技術のアップに取り組み始めました。そうした努力もあって生産量は週4~5トン程度までアップしてきましたが、組織の運営を支えるに足る収益を上げるにはまだ十分とは言えませんでした。それでもこの時期に協同組合化に踏み切ったのはまがりなりにも生産量の増加が実現して今後の事業拡大に明るい兆しが見え始めたことと、将来事業を本格的に推進していく上で法人認可取得は避けて通れない道であるとの執行部の判断によります。

  生産拠点の移転

  しかし前途は多難でした。組合では法人認可後、行政に働きかけてパッキングハウスの電源設備改善(冷蔵庫の稼動に必要な高圧電源の導入)を目的とする補助金を申請しましたが、2005年3月になって補助金が却下されることが明白になりました。このために将来の恒久的なパッキングハウスを求めて地所探しを行ない、従来の場所からそう遠くない区役場の管理地を借り受けることになりました。新しいパッキングハウスは輸出元になっているPPFCが設備投資を担い、また出荷量不足で採算が取れない出荷作業についても当面は同社が管理運営する形を取ることにしました。

  一方伸び悩み続ける出荷量については生産基盤の抜本的な見直しを進めることにしました。パト郡でバナナ栽培を行ない、失敗してしまった生産者の多くが組合を離れる中で、サウィ郡に在住する多数の農家が組合に加入してきました。この地域では古くからホムトンバナナを国内市場向けに栽培してきており、新規加入した農家の多くは栽培経験を持っていました。トゥンカーワット農民会や組合の取り組みについても以前から耳にしており、仲間に加わりたいとずっと機会を伺っていたのだといいます。組合員の脱退が続き生産基盤と組織基盤の崩壊の危機に瀕していた組合にとって、それは正しく「渡りに舟」だったのかもしれません。こうしてサウィに在住する50余名の農家が新規加入するに及んで、組合は息を吹き返したのです。これに伴い実質的な生産拠点はパトからサウィへと移ることになりました。

  新体制

  2005年9月に行なわれた年次総会で任意団体の立ち上げ以来組織を引っ張ってきた執行部が勇退を表明、役員改選が行なわれサウィ郡の生産者グループのリーダーが組合長に就任、同年11月には同郡内にパッキングハウスを建設、同時に組合の本部もここに移転しました。ここに至り組合の活動拠点は名実共にサウィ郡に移りました。
2006年には創立以来最多となる360トンを超える出荷量を達成、生産拠点の移転は組合にとって望ましい結果をもたらし始めました。ただしその後はサウィ郡を襲った突風被害の影響もあり、出荷量が減少してきています。

  2009年9月現在、組合は第三代組合長アナン・パーンサウィさんの陣頭指揮下にあります。組合長自身、熱心なバナナ生産者でありこの間突風被害にもかなり苦しんできました。組合員農家の信頼も厚い組合長の下、組合は生産基盤の再構築に向けて地道な努力を続けています。

 

 

 

  チュムポン県は南部タイ14県の玄関口に当たる県で、バンコクからマレー半島を約500キロ南下したところにあります。緯度は北緯10度29分、経度は東経99度11分、県の総面積は約6000平方キロとなっています。南北に長い形状をしており、東西の幅は平均36キロしかありませが、.南北は200キロを越えています。

  南北に長い県ですが、地形的な特徴は南北に縦長に切る形で三つに分かれています。一番西側は山地部で、ここから数本の河川が東に向かって流れており、県中西部の農業・生活用水を供給する貴重な水源となっています。中央部はなだらかな起伏がある平野部であり、農業生産に適した地域を形成、県土面積の四分の一を占めています。一番東側は平野部であり、220キロに達する海岸線を形成しています。

  季節は主に乾季・雨季の二つに分かれ、乾季は12月~5月、雨季は6月~11月頃までです。乾季に入ったばかりの12月~1月が最も気温が下がる時期で、16度前後まで下がる時があります。一方最も暑いのは3~4月で、平均36度前後となります。

  年間総雨量は過去30年の平均で2215.8ミリ、最も雨量が多いのは11月の354.6ミリ、逆に最も少ないのは3月の58.9ミリとなっています。

 

 

  考古学の研究知見などを参考にする限り、現在チュムポン県がある地域に人間が住み出したのは少なくとも紀元前後の頃まで遡ることができるようです。東西の幅が狭く、アンダマン海側とシャム湾側とを結ぶ物流ルートとして古くから利用されていた形跡があり、ペルシャやインドから着いた貨物が一旦現在の西県境付近まで川を上ってきて陸揚げされ、そこから陸路を辿って東側の海岸に出る河川まで運ばれたと言われています。逆に中国やメコン川河口周辺で取れた産物を西に運ぶ時にもこのルートが活用されたようです。現在県庁所在地があるチュムポン市の付近にカオサームゲオという丘がありますが、その丘の西側が河口となっていてそこまで貨物が運ばれてきたのではないかと言われています。この川(タータパオ川)は県北西部を上流としていますが、上流にある村からアンダマン海に繋がる河川(クラブリ川)の源流となっている地点までを繋ぐ、非常に古い山道があり、ここが古くからの物流ルートとして機能していたのではないかと言われています。同じような機能を持つルートは、現在私たちのバナナが栽培されているパトとランスワンを繋ぐ地域にもあったといわれています。恐らくこれらのルートが機能していたのは今から2000年ほど前ではないか、というのが専門家の説です。

  ただチュムポンの名前が歴史の史料に初めて登場するのはそれからずっと後のことです。ナコンシタマラートという、今はタイの一県(チュムポンからさらに南に二つ行った県)になっていますが、かつてはシュリーヴィジャヤ帝国という、ジャワ島に栄えたと言われる「海の帝国」の一大要衝として大きな勢力を誇っていた都市がありました。そのナコンシタマラートの建都にまつわる伝承の中にチュムポンの名前が出てくるのが、最初なんだそうです。仏暦1098年(西暦555年)にナコンシタマラートを建都した際に、北を守る要衝としてチュムポンに帰属を許した、というような記録がある。タイの歴史時代で言うとスコータイ王朝のさらに前の時代に当たります。ということはすでにこの頃チュムポンの町は形成されていたということです。

  これ以降数世紀、チュムポンの名前は史料に登場することがなく、再度その名前にぶつかるのはアユタヤ時代の仏暦1997年(西暦1454年)を待たねばなりません。ただそれも簡単で、ある貴族にチュムポンを領地(サクディナーと言います)として与えた、という記述があるだけ。その後アユタヤ王朝はナコンシタマラートと戦い、仏暦2229年(西暦1686年)にこれを併合しますが、この時にチュムポンの兵士たちを味方につけてナコンシタマラートを攻めたという記録もあります。仏暦2307年(西暦1764年)にはビルマ軍に攻められて一時征服を許した時期もありました。

  アユタヤ王朝が崩壊し、トンブリ王朝を経て現在のラタナコシン王朝の時代になってもタイはビルマとの戦争を繰り返しましたが、その際にも南側の戦略拠点としてチュムポンは重要な位置を占めたといわれます。海戦を行なうため海軍がチュムポンを拠点としたという記述もあり、古くからこの地が常時は交易の要衝として、非常時には戦いの要衝として機能していたことが判ります。ビルマとの戦いは19世紀にイギリスが干渉して同国を自国の殖民地とするまで続きますが、実はイギリスがビルマを攻めるに当たってはタイもこれに協力、やはりチュムポンを海軍の拠点として攻めたと記録されています。

  なお近代史の中でのチュムポンですが、第二次世界大戦が開戦したのはご存知の通り、日本の真珠湾攻撃がきっかけでした。ただこの真珠湾攻撃があった1941年12月8日、日本軍はインドシナ半島にも同時に上陸しています。その最初の上陸地の一つがチュムポンでした。上陸したのはこの日の午前2時、この時チュムポンに駐屯していたタイ国軍の軍勢はちょうど演習に出ていて不在だったため、30名余りの予科練の少年兵が日本軍を迎え撃ち、至近距離で銃撃戦を展開したといいます。その後昼近くになって、日本軍に攻撃を加えることなく通過させよとの打電があり、銃撃戦は打ち切られたそうです。日本軍の目的地は英国の植民地ビルマでした。こうして見るとアユタヤ時代から近代に至るタイ王国政府の外交政策は、一貫して対ビルマ政策をどうするか、が最大の関心事だったのではないかということがぼんやりと見えてくるような気がします。タイにとって最大の危機は欧米列強でも日本でもなく、数百年に渡って戦闘を繰り返してきたこの隣国だった。そしてタイは欧米列強や日本といった勢力を巧みに利用してこの危機を払拭しようとしたのではないか、そんな気がします。

  チュムポンは昔はムアン・チュムポンと呼ばれていました。ムアンとは現代タイ語では都市とか国家とかを意味する言葉ですが、当時は行政単位の一つで、地方を統括する中心都市をムアンと呼びました。12世紀ごろ、まだタイ族の統一国家が無かった時代に各地に小国家が乱立した時代がありましたが、それぞれの国家をムアンと呼んでいたらしく、それがその後行政単位の名称として用いられるようになったようです。ちなみに今チュムポン県の県域にはムアン・チュムポンの他にムアン・ランスワンがありました。私たちのバナナが栽培されているラメーやパトなど、県の南部地域の中心に今でもランスワンという比較的大きな町がありますが、そこがムアン・ランスワンです。仏暦2439年(西暦1896年)の行政改革で州(モントン)制が導入され、ムアン・チュムポンはチュムポン州(モントン・チュムポン)となり、ムアン・ランスワンは同州に組み入れられました。その後ラーマ6世時代の仏暦2459年(西暦1916年)の行政制度改革で県(タイ語でジャンワット)制が導入されることになり、この時にはランスワンもジャンワットに昇格していますので、この地にはチュムポン、ランスワンの二つの県(ジャンワット)ができたことになります。ランスワン県が廃止され、現在のようにチュムポン県の一郡となったのは仏暦2475年(西暦1932年)のことでした。ところでかつてのムアン・ランスワンが、チュムポンと拮抗するほどの勢力と繁栄を誇った町であったことは、今の行政区分に如実に反映されています。現在チュムポン県の県庁所在地であるムアン郡とその南隣にあるサウィ郡との境界には、ウィサイ・ヌアとウィサイ・タイという非常に似通った名前の区があり、前者はムアン郡に、後者はサウィ郡に属しています。ヌアは北、タイは南ですから北ウィサイ区と南ウィサイ区、一見すれば同じ郡にあってもおかしくない地名です。これがなぜ二つの郡に分断されているか、というと今のサウィ郡がかつてのムアン・ランスワンの支配下にあったからなのだそうです。ちなみにこの南ウィサイ区、ですが現在トゥンカーワット農園経営農民会の最大のバナナ生産地区であるナイトゥン地区がある辺りのことです。

 

  チュムポン県の人口は2009年の統計で、48万7,744 人、男性が24万2,915 人、女性が24万4,829 人、人口密度は1平方キロ当たり73人となっています。県は現在1.ムアン郡、2.ターセ郡、3.パティウ郡、4.ランスワン郡、5.ラメー郡、6.パト郡、7.サウィ郡、8.トゥンタコー郡の八つの郡に区分されており、それぞれの郡がさらにタムボンと呼ばれる小区に区分されています。いくつかの行政村(ムーバーン)が集まってタムボンを構成していますが、県全体のタムボン数は70、ムーバーンの数は736となっています。

  ちなみにラメー郡は県の最南端にある郡で、1.ラメー区、2.トゥンルワン区、3.スワンテーン区、4.トゥンカーワット区の四つの区(タムボン)で構成されており、全部で47村落となっています。

 

 

1993年~1996年  

よどがわのラメー初訪問

 村の集会場に関心ある農家が集まり、大阪よどがわ市民生協長部長の説明に耳を傾けた。(1993年7月12日)

グループ誕生前夜

 グループ発足を前に、無農薬栽培バナナを日本向けに輸出していた先駆的農協タヤン農協を視察した時の珍しい写真。夜は皆で農協事務所に宿泊した。写真手前、床に座っているのはソムヌック現副理事長。(1993年7月18日撮影)

月例会議

 発足当時は月一回、メンバー全員が小学校の教室に集まって会合を開き、作付割り当てなどを決めていた。なお撮影したこの日の会議には首都圏コープ事業連合の山本伸司現常務執行役員が出席していた。(1993年12月)

初めてのバナナ栽培・・・

 グループ発足後間もない頃の苗の作付け風景(1993年12月撮影)

皆が真剣・・・

 訪問した大阪よどがわ市民生協職員と真剣な顔で協議するニポン理事長(当時)ら執行部(1993年12月16日撮影)

初代作業場

サハコンパタナー小学校の講堂を使用していた。

とくしま生協の初訪問

 林みす子理事長(当時:写真中列左から4人目)を団長とするとくしま生協一行が現地を訪問、「覚書」に調印した。(1994年10月)

冷蔵コンテナが到着

1994年10月の黄変・全量廃棄事故を教訓に冷蔵コンテナを設置した。稼動に必要な電源設備の設置費用は大阪よどがわ市民生協が支援した。(1995年3月8日)

第二次訪日団

 ラメーからの一行四名が訪日、よどがわ市民生協組合員・職員と交流したほか、とくしま生協の総代会にも出席した。写真はよどがわでの交流会の風景(1995年5月30日撮影)

当時の出荷作業風景

同上

 (1996年12月24日撮影)

1997年~2000年

 

よどがわ20周年

大阪よどがわ市民生協創立20周年記念式典に参加したタウィ会員(左から二人目)とジャルーン農業振興局員(同三人目)。(1997年2月)

新作業場建設

完成間近の新作業場を前によどがわ・藤田部長らと。この日よどがわから作業場建設支援金42万円が会に贈られた。作業場は同年5月に完成した。(1997年3月10日)

大洪水

97年8月、大型台風によって洪水となり、橋は通行不能に。幹線道路も寸断され、20日間余り出荷できない状態になった。

そして大旱魃

 逆に翌年の乾季は深刻なエルニーニョ旱魃に見舞われ、生産基盤が壊滅的な打撃を受けた。(98年乾季)

苦しいときほど交流を

旱魃の真っ只中にあった98年3月、第5次よどがわ友好訪問団がラメーを訪問、生産者を励ました。

 

復興に向けて

 旱魃被害に対するよどがわからの義捐金を受け、会では「よどがわ基金」を設置、生産基盤の復興支援を進めた。写真は98年12月に開かれた同基金運営委員会の会合風景。

 

営農活動も開始

 生産基盤復興に向け、スカパット理事(写真左端:役職は当時)が常勤役員となり圃場を巡回、栽培指導を開始した。(1999年3月撮影)

笑顔が戻ってきた・・・

復興への努力が実り、99年10月には出荷量が13トンまで回復、作業員の表情にも明るさが戻ってきた。

新しい力

 パト郡など近隣で農業に従事している若い生産者がバナナ栽培を開始、生産力は急速に伸びていった。(写真はパンワン地区の生産者の圃場:2000年5月撮影)

鳥取県生協職員の訪問

2000年7月、鳥取県生協の若い職員3名が井上商品部長に率いられて、ラメーを訪問、パト地区の若い生産者と交流した。(2000年7月21日)

スカパット専務が鳥取を訪問

 鳥取県西部地震があったこの年の11月、スカパット専務理事(当時)が鳥取県生協を訪問、松軒専務理事に記念品のほか、6万円の義捐金を手渡した。ラメーの生産者が同生協を訪問したのはこの時が初めてだった。(2000年11月14日撮影)

 

2001年~2002年

 

鳥取生協組合員がラメー初訪問

鳥取県生協組合員15名の皆さんがラメーを初訪問。バナナの苗を記念植樹するなど産地の皆さんと交流。(2001年1月17日)

 

バンラートを招いての産地交流会開催

バンラート農協のバナナ生産者を招待しての産地交流会を開催。栽培に関する熱心な意見交換が為された。(2001年3月17日)

 

第8次よどがわ友好訪問団

2001年8月22日、よどがわ友好訪問団がラメーを訪問、パト地区の圃場などを視察したほか、80名ほどの生産者が集まっての意見交換会も開催した。

 

新体制

 発足から会の運営を支えてきたニポン理事長が勇退、イサラー理事長率いる新体制が発足した。(2002年3月4日)

営農指導員が鳥取訪問

 2002年3月11日、ナレート営農指導員が鳥取を訪問、生協主催の「産直虹の集い」に参加した。

また旱魃が・・・・

この年、ラメーは四年ぶりの旱魃に直面、新執行部は発足直後からその対応に追われた。(2002年4月撮影)

とくしま生協職員が訪問

とくしま生協職員四名がラメーを訪問、圃場・出荷作業を視察し、生産者と交流した。(2002年7月12日)

9周年

タイでは「9」をラッキーナンバーとすることから9周年を迎えたこの年、ラメーで記念行事を開催した。同時に「栽培・出荷基準」を改めて確認、調印した。(2002年9月14日)

イエローカード

 9周年行事での「栽培情報開示に対する要求が高まってきている」という日本サイドの示唆を受けて、栽培管理記録票(イエローカード)を導入。(2002年11月)

旱魃への義捐金寄付

2002年12月12日、 大阪よどがわ市民生協の前川常務理事(当時)がラメーを初訪問し、旱魃被害に対するよどがわ、しこく、鳥取三団体からの義捐金50万バーツをイサラー理事長に手渡した。

   

 

 

 タイ南部農家の結婚式料理を紹介します。料理の写真をクリックすると、レシピを確認することができます。

 

 

 

 

 

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